ミックス天(イカ・エビ・ホタテ)、トマト・カレーもんじゃ(チーズ付き)、カマンベールもんじゃ、たこわさび、ビール、ハイボール、お通し
午前4時40分起床。浅草はくもり。
この日は、雨の中、家人と『六文銭 支店』へでかけての夕餉である。
当然「粉物」を食べようと云うのだが、この粉物、10年に1度食べたくなるようなのだ。
と云う事で2016年4月以来の訪問である(たぶん)。
この日はビールとお通し、それから「たこわさび」、それから最初はお好み焼きの「ミックス天(イカ・エビ・ホタテ)」をもらう。
乾杯をしてから焼くのだが、10年のブランクなどなんのそのと、家人が見事に焼き上げてくれる。
早速御相伴したのだが、うまいのだよ(笑)。
それからは「もんじゃ焼き」にして、先ずは「トマト・カレーもんじゃ(チーズ付き)」にしてみる。
このカレー味なのだが、(あたしにとっては)ランチに続いてのカレーであったが、あたしは全然かまわない人なのだ。
なんなら、3 ,4日続けてカレーでもかまわないぐらいなのだよ(笑)。
勿論、もんじゃを酒肴にビールを呑んだのだが、途中二杯目はハイボールにしたのだ。
うまいのだよ(笑)。
そして最後に「カマンベールもんじゃ」である。これについては、あたし自身がよく書けたと思う「テキスト」があるので、遠慮なくそれを再利用してしまおう(笑)。
もんじゃの作り方(ロラン・バルト風)
このもんじゃは、伝統を保ちながらも(保守)、異形をも積極的に飲み込んでしまおうとする浅草そのものである。それは、鉄板に具だけを乗せ、へらで細分化することからはじまる。
もんじゃの具は、東洋の食べ物は基本的には極小に向かうという定理に従う。それは結合でもなければ密集でもなく、まずは極小に向かって散逸する。
やがてその極小に向かった破片は、集合しながら土手を形成しはじめる。それは来る変態への期待であるように秩序正しくである。 その土手は粗野ではあるが、しっかりした石積のように壁として機能する。具はカオスではなく、円環をつくり、秩序のある空間をつくりはじめる。この空間が迎え入れようとしているのは、小麦粉の水溶液というカオスである。
そのカオスの正体は、小麦粉の水溶液に、ウスターソースをレンゲ三杯、塩、コショウ、味の素を少々加えて混ぜ合わせた、茶褐色の液体である。 しかしこの褐色の混沌こそがもんじゃである。もんじゃはこの水溶液だけで成立する。つまり具はもんじゃではない。
この茶褐色の混沌がないことには、具はただの炒められた野菜のくずであり、チーズの破片である。具はこの混沌の水溶液を迎え入れることで、新たな生命(存在意義)を得るに過ぎない。 そのために(その混沌を閉じ込めるように)自らを、(幼稚ではあるが)秩序を持った土手にして(混沌の動きを)塞き止めるのである。
しかしその秩序は一瞬にして崩壊する。 崩れ行く秩序の時空で、水溶液の水分は蒸発し、具は鉄板と水溶液のかさなりのなかで攪拌され、そのリズミカルな運動のなかで具は己の輪郭を失っていく。
チーズは今や姿かたちを失うほどに極小化し、水分を失いつつある水溶液と一体化を始める。野菜のくずはもはや生命の残骸でしかない。しかしその極小は、極小としてもんじゃの中に生きるのである――無限小のように。
カマンベールもんじゃは、その極小を取り入れることによって、茶褐色の小麦粉の水溶液の焼き物ではなく、多層をなした無限小の集合として表出する。
ということで、10年前(それどころか20年前)と変わらずうまかったのだよ(笑)。

