午前7時40分起床。浅草は晴れ。昨日は山鹿からお客様がおいでになられ夕餉をご一緒した。コースは、浅草コリアン街→居酒屋浩司→岩手屋という(今の私の土曜日の)黄金コースである。(写真:豚足:大福園にて)
差異
それは私の日常であることで、例えば昨日書いたような地方都市の均質化のような「ものの考え方」の基底になっている。つまりそれは、二項対立であり、差異の認識のための、構造を認識するための、眼鏡である。
桃知利男の浅草的ブログ
昨晩は郡山市で夕餉をとる。郡山の中心市街地である駅前も、他の地方都市同様に寂れている。駅前の居酒屋は大手チェーン店系ばかりだし、駅前のビルはサラ金が埋めている。それは差異を孕まないことでフラットな世界だ。
やや興醒めのなか、選んだのは韓国家庭料理 マダンという店だった。選択の理由は、たぶんいけるだろうという直感だけである。
午前7時30分起床。浅草はくもり。
昨日のことだ。朝方、移動のために(いつものように)ampm観音裏の前でタクシーを拾った。そしていつものように、「おはようございます。上野駅までお願いします。」と行き先を告げた。
少し走り出して、ドライバー氏は、「真っ直ぐ行きますか、それとも国際通りから……」とこれもいつものように尋ねながら、おもむろに未開のガムをひとつ「どうぞ」とよこした。
ガムを1枚というのは今までもあったけれども丸々ひとつである。私は「いつもこんなにサービスしているんですか」と尋ねると、「いやね、朝から"おはようございます"って乗ってくるお客さんはうれしいじゃないですか」と、「そんな客は滅多にいないんですよ」とドライバー氏は答えた。
私は「そんなもんかい」と答えたが、まあそれが営業トークだとしても、日常の挨拶をして褒められるというのも、なんだかな、なのである。まあ、私はうれしかったのは言うまでもまいが。
ここのところ、『存在することの習慣―フラナリー・オコナー書簡集』を読んでいる。この本は不思議な力があって、読んでいると妙に落ち着く、というか、なにか心が安定するのである。
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フラナリー・オコナー(著) |
かといって、べつにヘンな本ではなく、フラナリー・オコーナーという、たぶん殆どの人は知らないであろう(勿論、私も知らない)米国の女流作家の書簡集である。