川海老の唐揚げ
昨晩の酒肴、川エビの唐揚げ。(居酒屋浩司)
軽く塩がふられており、レモンを絞ってつまむ。それはまさにつまむのであり、ほかのやや重めの酒肴の合間に、そして酒の合間に、軽くつまむには最高の、しかし存在は脇役としての"つまみ"である。
しかしそれは時として、ほかの酒肴を凌駕してしまう。決して主役ではないのだが、主役を食ってしまう。川エビの唐揚げとはそんな存在である。
桃知利男の浅草的ブログ
確定申告は今日が締め切り。
今回は、税理士に払う経費をけちって自分で決算から申告書を作成してみた――こう見えても私は簿記2級。(笑)
感想は、税理士に頼んだほうが安い!である。これから税務署へ行ってくる。
午前8時起床。浅草は晴れであったが、肌寒い日であったらしい。
"らしい"と書くのは、今日は一歩も外に出なかったからだ。それは「ひきこもり」と言えば「ひきこもり」と言えないこともないが、今日の状況は、外へ出たくとも出られない、なのである。
午前7時起床。浅草は晴れ。
最近、『41歳からの哲学』を再読していて、、ネットで調べ事をしていたら、著者である池田晶子さんが先月23日に逝去されたことを知った。ご冥福をお祈りしたい。
彼女は、常々「生きても死んでも大差ないと思っている」と言っていた人だ。
私はもともと命根性が薄い。生きても死んでも大差ないと思っている。それは、実際に、生きても死んでも大差ないからであるが、言ってみれば、いつも何か地球を天空から見下ろしているような感じなのである。ここから見ると、自分の人生も人類の運命も、宇宙生成の一コマみたいにしか見えないのである。(池田晶子:『41歳からの哲学』:p17)
この言い方はともすると誤解を孕むが、彼女のこの考え方は、自分自身の存在を考え抜くことでたどり着いたものであって、凡人が突っ込みをいれられるよなものではない。定義なのである。
私がその結末を目にすることは絶対にないでしょうが、そんなに大きな危険もなく告知することができると思います。あらゆる集団的構造――家族、アソシエーション、国家――のこうした破壊のプロセスを長引かせておくなら、いまだかつてまったく見たこともない知覚不可能な結果――都市部における暴力等、その徴候はすでにあります――が出現するのを目の当たりにすることになるでしょう。
一方の手で節約(経済化)したものの代価は、他方の手で支払うことになるのです。実施されつつある破壊プロセスの影響はかなり経ってからでなと分かりません。時間をかけなくてはならないでしょう。
医療システムが崩壊するよりも前に、なおも沢山の献身的に尽くす看護師たちがいますし、言ってみれば、システムの意に反してシステムを救う沢山の人々がいるからです。学校システムも同様です。フランスの学校システムは内部崩壊の途上にあります。となれば誰が黙っていられるでしょうか、こんな……非常事態の時に。(ピエール・ブルデュー:『政治』:p68)
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ピエール・ブルデュー(著) |
昨晩の夕餉は、煮込み通り(ホッピー通り――何度も書いているけれども、このふたつは同じ通りのことである)のつくしにでかけた。 金曜日の夜にしては、通りは空いていて、「浅草が静かなこと―Infoseek 検索キーワードランキング (2007/2/27~2007/3/5)東京地名編。」を身をもって感じてしまった。
つくしは、もんじゃ焼き、お好み焼き、鉄板焼きの店だが、場所柄、客の年齢層は高く、しかし守備範囲の広い、アジールな店である。
そのアジール性は、店内に飾られているお酉様の熊手が象徴しているだろう――「おかめの熊手は女性の性器であり、それは豊穣を象徴している」。